はじめに 

いつか日本語で書かなあかんなーと思ってたことを、ようやく書ける気がして来たのでブログを作りました。別に自信があるわけじゃないけど、取り敢えず始めてみようと思います。実践を練習として、練習を実践として。

果たして誰に届くのかは分かりませんが、ちょっとずつ積み重ねていく中で何か見付かるかも知れません。一息に「人生語らな!」とか思うと気が重くなるので、自己紹介は今後の記事の中に混ぜ込んでいくということでご勘弁を。英語で良ければ、手っ取り早くこちらをご覧ください。

このブログに掛ける目標や託す望みなどは多々ありますが、一つ決めてるのは匿名にしないということです。在日やゲイにとって「匿名性」は牢屋であり、住居であり、防具であり、また武器でもあります。匿名での活動を批判する願望も資格も自分にはありません。ただ僕にとっては、自分が誰なのかを明確にした上でやっていくのが一番簡単かつ有意義やと思ってます。

どうぞよろしくお願いします。

2012年2月

在日の未来と民族教育 

最近朝鮮学校を支援する運動とかを遠巻きに見てて思うねんけど、このウリハッキョを中心としたコミュニティは将来どうなってくんかな?学校組織の運営の面から見ると、国全体の少子高齢化もあるからこの先入学者数が大幅に増えることはまず無いと思うし、民族教育そのものの意義についても世代が代わるにつれてもっと深く問われてくると思う。

朝鮮学校の民族教育だけを見れば、そりゃまぁ僕にとっては意義は今のところは明確やけど、日本学校と相対的に見た時に、個人的にどっちが良いかといわれるとどっちも嫌と答えてしまう気がする。僕は朝鮮学校に行ったことはないからあくまで印象でしか話せへんけど、日本学校で全然馴染めてなかった子どもの僕が朝鮮学校なら馴染めてたって言う自信も根拠も無い。ゲイやってことも合わせて考えると余計息苦しい想いをしたかも知れん可能性は拭いきれへんな。

先に結論を言っておくと、僕は朝鮮学校の民族教育の過去や現在の情況を否定はせぇへんけど、全面的に肯定する気持ちも無い。一世や二世がどんな想いで築き上げて守り抜いてきたかは知ってるつもりやけど、もちろん完璧なものなんか無いってのも知ってるけど、今の情況こそがあるべき姿やとは全く思わへん。でもやっぱり経験してない分だけ憧れはある。簡単に肯定も否定もできひんなぁ。

肯定しかねるのは、大雑把に言うと、ウリハッキョのコミュニティ(及び総聯、と民団もある程度)には「これが正しい朝鮮人の在り方である」というのが結構しっかり共有されてて、それはまぁ良い事やねんけど、良くない面もあるって考えはそんなに共有されてないと思う。例えば言語や歴史を知ってることは大事やってのはわかるけど、それが絶対に不可欠やとは僕は思わへんし、その教育が朝鮮学校でのみ行われんとあかん理由は何も無い。同胞に囲まれて育つことで「健全な」「朝鮮人としての」「アイデンティティ」を培うことができるっていう線の考え方は根拠に乏しいし大体は結果論でしかないと思う。むしろ元から「健全な(在日)朝鮮人とはこういうもんや」ってのがしっかり用意されてるねんから、それはもう「健全に」なるしかないんじゃないかな。

でもそれって、考えてみたら、半島本土の朝鮮人の思考とほとんど一緒で、「真正の朝鮮人とはこうである」っていう理想があって、一人ひとりがそれと照らし合わされて、そんなテストに合格するかどうか、みたいになってる部分はあると思う。帰化してなくて、民族名で生きてて、朝鮮語喋れて、文化も体得してて…ってどんどんリストをチェックしていったら、最終的には同胞の異性と結婚して朝鮮人の子ども作らなあかん、つまり「純粋な」「朝鮮」という民族・国家を再生産する作業に貢献せなあかん、ってなってくるんじゃないかと。僕はそんな「健全な」在り方はゴメンやわ。これはそういう理想の在り方を否定してるんじゃなくて、それ<だけ>が正しい在り方やって考えを否定してるんやけど。

そんな風に考えていくと、一体何を根拠に「私は朝鮮人です」ってキッパリ言えるのか怪しくなってくるみたいやけど、僕はそんなん結局は個人の勝手やと思う。朝鮮人としての民族的な自己認識を国籍とか名前とか言語とか血筋とかで代わりに測ろうとしてたら、将来的にはそんな「在日」は消滅するに決まってるやん。でも現実はそうじゃなくて、民族を量的な純粋さで測ってたらアイヌ民族なんかほとんど消えたことになってしまうけど、アイヌやって自己認識を持ってる人はいっぱいいるし、むしろこれから増えてくると思う。自分のアイデンティティについて自分以外の誰にも、家族にでさえ、どうこう言われる筋合いは無いねん。その代わり、自分がどういう生き方をしたらどういうアイデンティティに繋がっていくか、そんでどういうアイデンティティを持てばどういう生き方に還元されるのか、というプロセスを自分自身で探していくしか無いんじゃないんかな。

つまり、今までの主流な在日論では、「半島を棄てて日本への同化」か「半島を基軸にした民族分離主義」かのどっちかしか、日本人からも在日コリアンからも与えられてなかったと思うねん。日本人からは「平等に扱って欲しかったら帰化しろ」って言われるし、在日からは「帰化したら在日じゃない」って言われるし。そうじゃなくて、どんなに「朝鮮人らしく」なくても、自分の歴史を辿って自分で自分は朝鮮人やって自由に決められるように、そんでその決定を受け入れられるようにしていかなあかんのちゃうかな。日本人とのミックスでも、朝鮮語喋れへんかっても、民族名持ってなくても、日本国籍でも、自分は朝鮮人やって言えたらそれでいいんじゃないのかと。

だから、僕はウリハッキョを守るのも重要やけど、民族教育を、または民族問題に敏感な教育を、もっともっと日本学校にぶち込んでいかなあかんと思う。現に在日コリアンの多くはほとんど「同化」して日本人として暮らしてるんやから、そこでどうやってほとんど「同化」してる在日コリアンの若い世代に、それでも自分のルーツを誇ってもらえるように仕向けるか。どの民族が優れてるとかどっちの国家が正しいとかじゃなくて、どうやって歴史を教えていくのか。朝鮮人だけに朝鮮語を教える必然性は無いし、朝鮮人だけに朝鮮の歴史を教える必然性も無い。むしろみんながみんな、朝鮮の問題も沖縄の問題もアイヌの問題も部落の問題も、一般教養としてもっと深く教わらなあかんやろ。

そこで必要とされるのは、誰を前提として学校教育を組み立てるのかやと思う。クラスに二人は朝鮮人がいる前提でする授業は、クラス全員が日本人やと思い込んでする授業とは全然違うはずやし、クラスに二人は「セクシャルマイノリティ」の生徒がいる前提でする授業は、クラス全員の主体性がジェンダーやセクシュアリティの面で同質のもんやと思い込んでする授業とは全く違うはず。

「多様な在り方」を「認める」とか「受け入れる」とか「尊重する」とかよく言うけど、それにはまず「これこそが正しい在り方・やり方や」っていう考えは一つ残らず潰していかなあかんと思う。それこそが、弱者や少数派だけじゃなくて、強い側の人間も多数派の人間も含めて結局みんな苦しめてるってことに気付こうよ、と言いたいわけ。そんでさっきも書いた「同化」か「分離」かのどっちかしか選ばせへんような間違った仕組みはもう通用しぃひんねん、と言いたいわけ。「多文化共生」とか安易に使われてるけど、それが実際どういう環境なんかもっと具体的に考えようよ、と。「どっちか」じゃなくて「どっちも」の道もあるやん!


日本のゲイパレードの在り方 

今から1ヶ月後に東京でゲイパレード「東京レインボーパレード2013」が開催されるそうな。長年続くゲイコミュニティ内での政治的いざこざを乗り越えて、名前や主催者がどうあれゲイパレードが行われるのはめでたいことです。

僕はこれまでにサンフランシスコ、ソウル、ロンドンのゲイパレードを見てきました。日本のはまだどれも行けていません。一番楽しかったのは2009年のソウルです。欧米のプライドとは比較にならへんぐらいこじんまりしたイベントでしたが、在日のゲイとしてすごく「しっくり来た」からです。

欧米では大企業をスポンサー陣に構え、警察も含めた行政の力も動員して、観光客を集めるためにこれでもかという華やかさを演出して行われます。そのためセクシュアリティの多様性がある程度受け入れられている土地では特に、政治的意義よりも経済的意義のほうが大きいように見えます。そんな政治的な稀薄さはやっぱりあちこちに表れてくるもので、より大きい金額を動かせる団体が権力を持つ分、プライドのメッセージも(あったとしても)保守的あるいは無批判なものになりがちです。アメリカやと主に裕福な白人ゲイ・レズビアンを中心層とするHuman Rights Campaignなどが大々的に同性婚の合法化を全面に押し出してきますし、欧米では多国籍大企業がここぞとばかりにゲイフレンドリーさをアピールして消費主義文化を煽ります。

それに対し、色んな方面から批判の声は上がってきます。国家という枠組みに依存した婚姻制度を強調する形の同性婚は、キャンペーンに費やされる金額の割にLGBTコミュニティ内でも比較的一部の人間(金持ちゲイ、白人ゲイ、ナショナリストゲイ、障碍を持たないゲイ、国籍保持者ゲイ、中年以上のゲイなど)しか恩恵を受けないものだとして批判されています。現にHuman Rights Campaignなどのメジャーな団体はLGBTユース、有色人種のクィア(Queer People of Color: QPOC)、トランスの人々などに対して敵対的であることで(そういう敏感なコミュニティの間では)有名です。また、それに呼応するように、グローバル資本主義に迎合する「ゲイ・ライフスタイル」は商品的価値がそのまま政治的価値に置き換えられています。たとえば旅行業界やアルコール業界はいち早く子無しゲイのポケットマネーに目を付けた産業の一つですが、旅行というものの帝国主義性・植民地主義性を顧みることなく今日もたくさんのゲイが「エキゾチックな」場所で「エキゾチックな」男達を視姦(または買春)し国際的な労働力の搾取の恩恵にあやかっています。そしてLGBTコミュニティ内でのアルコールやドラッグへの依存問題には目を背けて、バーやクラブ中心の文化は発展を続けています。さらに全体的なゲイ消費文化に関する環境問題への声は未だほとんど聞こえないままです。

もっと踏み込めば、近年では国境を越えた政治的な問題がどんどん浮かび上がってきています。特に、欧米以外の国や地域、文化を、よく知りもせずに(もしくは巧妙に、意図的に)ホモフォビックだと決めつけて政治的介入の言い訳に利用したりすることが増えていて、同時に欧米または白人文化をゲイフレンドリーかつ先進的だという風潮を作り上げることを含めて、うちの大学のJasbir Puar教授は「ホモナショナリズム」と呼んでいます。顕著なのはイスラムに対する先入観・ステレオタイプ・恐怖心などを利用して反対に西洋諸国を「善」と位置づける流れで、これはパレスチナ・イスラエルの問題に深く関わって来ています。現在イスラエルは、パレスチナの占領政策の一部として、パレスチナを含めたアラブ・イスラム文化をホモフォビックと呼ぶことで、「ゲイフレンドリーな」イスラエル国家による占領を正当化しようと全力を尽くしています。その一環でイスラエルの観光局はゲイ雑誌などに広告をどんどん掲載したり、また2006年にはワールドプライドを開催したりと、ゲイの旅行先としての地位を確立しようとすることに努力を惜しんでいません。

こういった国際的な流れの中で、東京レインボーパレード2013が、パレスチナの占領を続けるイスラエルの大使館や、中東を始め世界中で帝国主義外交政策を行っているアメリカの大使館の協賛を受けていることは、僕としては許されることではないと思っています。また、天皇制を直に支えるものである日本の戸籍制度を問題として捉えることなく同性婚を支援することは、大和民族中心の日本を保持し、アイヌ、沖縄、在日外国人の迫害に加担することであり、さらには女性差別を構造的に助長することでもあり、実に目に余る状況です。もともと欧米ゲイ文化の単純な模倣で終わっていた感じのあった日本のゲイパレードが、いよいよそのナショナリズムまでコピーして、日本や世界中の排外主義の流れに身を任せ始めたかと思うと、痛々しいと言わざるを得ません。賛同企業も自動車やアルコールの海外資本が名を連ね始め、ゲイプライドの商業化は当然であるかのような雰囲気が汲み取れます。

これが果たして本当に東京のゲイパレードの望む未来なんでしょうか。大規模化を目指すことは政治的意義を高めることであり、僕は反対はしません。でもその課程で国内外の他のコミュニティの抑圧に加担したり、商業化を押し進めて消費文化を喧伝したりすることは避けられることであり、避けられるべきだと思います。せっかく政治意識のあるLGBTコミュニティが集まって何かを成し遂げようとする絶好の機会やのに、レインボーパレードがこんな中途半端な形で、ただのお祭り騒ぎで終わっていくのはもったいないし、悔しいし、やりきれません。

僕がソウルのゲイパレードで気に入った、というか感動したのは、大企業の賛同は無かった分規模も小さかったけど、女性や10代・20代のボランティアの人達が中心になって動かしていたことと、朝鮮の農楽(プンムル)のパフォーマンスがあって、その衣装にレインボーカラーが取り入れられていたことです。特にプンムルは僕にとって朝鮮の農民のつよさを象徴するもので、コリアンであることとLGBTであることは矛盾ではないということを生まれて初めて実感しました。メディアには黙殺されたやろうし、お祭り騒ぎ的な面ももちろんあったと思います。でも僕が本当に「行ってよかった」と思えたプライドはあれが今のところ最初で最後です。友達もできました。

東京を始め、日本のLGBTプライドもまだまだその在り方を模索中やと思います。欧米のように無批判な商業化に向かうのか、国際的な問題や環境問題、また他の全ての差別や抑圧に敏感な姿勢を育てられるのか、今からでも遅くないし、これからもっと大きく問われていくべきだと思います。東京レインボーパレード2013の運営委員会が言うような「多様な個性に寛容な社会」を目指すだけでは乗り越えられない複雑な権力の構造や不平等性と向き合うことは、「誰もが生きやすい社会」を作るのに必要不可欠です。


「見えない存在」性 

実際に在日コリアンでゲイ・ビアン・トランス・バイの人ってどれくらいいるんでしょう?僕は日本のゲイ社会で日常生活を送ったことがないのでほとんど出会ったことがありません。「たぶんコリアンの血が混ざってる」と言う友達はいるし、アメリカにも韓国人と在日の両親を持つクィアの友達がいます。でも在日コリアンとしての自認が強いLGBTの同胞は全くと言っていい程知らないのです。強いて言えば自分の親戚に一人いるのを知ってるぐらいかな。

mixiの「在日でゲイ」コミュニティには僕を含め4人だけメンバーがいます。たった4人!僕が以前にちょっとだけ働かせてもらってた堂山のバーにいる韓国出身の従業員さんの証言では、たまにこっそり「私在日なんです」って彼にだけ打ち明ける人がいたりするらしい。ゲイ社会でのコリアン男子のモテっぷりを考慮すれば、もっとあっちこっちで(特に大阪とか)出会っててもおかしくないはずやのに、なんでなんでしょう。ちょっと考えてみましょうか。ゲイだけに特定するつもりは無いんですが、なんせゲイ・ビアン・トランスの各コミュニティは元々繋がりが稀薄な上に、高校以後は日本での生活経験に乏しいので、視野が限られてることがちょっと悔しいです。

1)そもそも在日コリアンとしての自認が強くない。
日本を出るまでの僕はこの状態だったので、個人的に一番あり得るかと思うんですけど、どうでしょう?3世以降やったら特に在日の親は一人だけやったりして日本語・日本名・日本国籍で育って来た人も多いと思います(僕がまさにその一人です)。見た目の区別がほとんど付けられへん以上、ことさら在日としてのアイデンティティを保つ動機も環境も揃ってないのが現実なんかな、と。

2)日常生活でゲイ・ビアン・トランスとしての問題のほうが在日としての問題より大きい。
これはもちろん一つ上の理由とペアになってることもよくあると思います。人種的・民族的マイノリティやったら大抵は自分の家族とは「同類」やのに対して、いわゆる(あくまで鉤括弧付きで)「性的マイノリティ」やったらまず原点が一人なので単純に考えてその分葛藤も大きくなるでしょう。逆の場合もあるんかな?

3)普段日本社会で日本人として生活してるからあえてゲイ・ビアン・トランス社会で在日として生きる理由がない。
ここまで考えて、これらの理由はそれぞれ独立してるわけじゃなくて全部どっかで繋がってることに気付きました。日本社会の一部である以上、ゲイ社会の中でも似たような民族的・人種的な力関係が成立してても驚くことはないでしょう。すると、ノンケ社会⇄ゲイ社会の境界線が、日本人キャラ⇄在日キャラの境界線と必ずしも重なる必要はないということになります。ちなみにこのキャラを使い分けること、英語ではcode-switchingと言います。

4)ゲイ・ビアン・トランス社会で在日コリアン差別を避けるために意識的に隠している。
1〜3が消極的に「在日としてはカミングアウトしてないけど、言うまでのことじゃないし、でも聞かれたら隠さへん」って感じの態度なのに対して、これは積極的に「過去にゲイ社会内の対人関係で何らかの在日差別を受けたから言いたくない」って感じです。でも、在日差別って対人関係ではあんまり面と向かって経験することは少ないと思います。なぜなら、その経験をするには、見た目ではっきり在日コリアンやって判別できる状態にいたり(民族衣装や朝鮮学校の制服着てるとか朝鮮語喋ってるとか)、もしくは差別した人がされた人のことを在日やって認識してる状態にある必要があるからです。でも戦時中から続く差別と同化政策の下では、生き残りのために日本人の振りをすることが知恵として世代を超えて身に付いてると思うので、あえて普段から初対面の人に「初めまして在日です」なんて言ったりせんし、今時大人になってあからさまな差別を投げつける日本人って石原慎太郎とか在特会とか極右翼の人間ぐらいしかいないと思うので、絶対数としてはこのケースは少ないんじゃないでしょうか。ゲイ社会に入っていく以前に日本社会での生活で在日であることを隠すことを学んでることのほうが圧倒的に多いと思うのです。ゲイ社会内で在日差別を受け得る状態にまで達することがまずほとんど無いでしょう。オープンでしかも無傷の在日がいて、その人の初めて受ける差別がゲイ社会であると言う確率、ゼロに近いはずです。

これはそういう日本人が存在しないとか在日に対するいじめが無いとか言ってる訳じゃなくて、むしろ差別ってもっと巧妙に機能するもんやってことを強調しようとしてるのです。つまり、在日コリアンに在日であることを自ら隠させる社会を作ってそれを保っていくことで、日本人は敢えて何もせずとも在日差別を続けていくことができるのです。そのためには少ない人数に対してちょっと強めの差別を与えるだけで残りの多数に見せしめになるし、それ以外の人間は日本人であれ在日の当事者であれ知らん振りどころか何も知らないことそのものが差別の助長になる訳ですから簡単です。もちろんこれは「性的マイノリティ」に対する差別に関しても同じことが言えます。カムアウトしない以上面と向かって差別を受けることはほとんど無いけど、それはつまり差別が無いっていう話じゃなくて、自発的にカムアウトできひん状況そのものが差別を受けてるんやってことです。だから法務省とかの「差別を無くしましょう」とか「人権を守りましょう」とかいう標語は無意味なのです(そもそも日本には人権を守るシステム自体が存在しません)。

5)ゲイ社会は「夜社会」なので「昼社会」の顔は持ち込まない。
この風潮はちょっと古いかも知れませんが、あり得る理由だと思います。バーとかクラブとかサウナとか公園とかいう伝統的なゲイの交流拠点は空間的にだけじゃなくて時間的にも夜に限定されてて、昼間に一般社会で何の仕事してどんな家族がいてとかいう生活臭のある情報は持ち込まれないようになってたので、その流れで在日うんぬんとかいう話も上がって来ない可能性はあるでしょう。ゲイ社会でも便宜上本名を使ってない人はいっぱいいます。でも今の20〜30代とかやったらまた違うかもね。これはビアン・トランス社会では更に違ってくると思いますが、今の僕の知識と想像力では残念ながら何とも言えません。

この他にも色々と在日コリアンの存在がゲイ・ビアン・トランス社会で見えない理由はあると思います。

仮に3で前述のノンケ社会⇄ゲイ社会の境界線と日本人キャラ⇄在日キャラの境界線が明確で固定されたものやとすると(そんなことは決して無いと思いますが)、理論的には4つのパターンが考えられます。
1)ノンケ社会・ゲイ社会両方で日本人キャラを使っている。
2)ノンケ社会で日本人キャラ、ゲイ社会で在日キャラを使っている。
3)ノンケ社会で在日キャラ、ゲイ社会で日本人キャラを使っている。
4)ノンケ社会・ゲイ社会両方で在日キャラを使っている。

これをゲイキャラ⇄ノンケキャラの使い分けと日本人社会⇄在日社会の境界線に置き換えるとまた4パターン考えられます。
1)日本人社会・在日社会両方でノンケキャラを使っている。
2)日本人社会でノンケキャラ、在日社会でゲイキャラを使っている。
3)日本人社会でゲイキャラ、在日社会でノンケキャラを使っている。
4)日本人社会・在日社会両方でゲイキャラを使っている。

でも現実的に見てどっちも1が大多数なのは明らかです。差別の社会的な構造がそうさせるからです。ということはこの両方の1を4に持っていけたらいい…んでしょうか。「ノンケ社会・ゲイ社会両方で在日キャラを使って、日本人社会・在日社会両方でゲイキャラを使っている」。在日でゲイの僕としては、何か違うやろって感じです。やっぱり在日アイデンティティとゲイ(クィア)アイデンティティはもっと複雑に繋がってるし、それと同時にノンケ/ゲイ・日本人/在日コリアンの社会の境界線はもっと曖昧なものです。それを無理矢理単純に、明確にすることで差別構造が成り立ってる分、そこを突き詰めていくことは必要不可欠なんじゃないでしょうか。そもそも「在日社会」って何?

ここまで書いといて、毎回のことながらオチが思い付かへんねんけど(関西人としては受け入れ難い状況)、まぁ原稿料もらって書いてる訳じゃないしいいか。アイデンティティ(自認)、キャラクター(行動)、コミュニティ(人間環境)の関係性の複雑さと曖昧さ、というお話でした。

「マイノリティ」の限界 

「マイノリティ」という表現をよく耳にします。「セクシュアルマイノリティ」や「民族的マイノリティ」など、日本・日本語では特に「社会的少数者」の意味で使われてますね。でもこの多数派が少数派を抑圧するっていう考え方、論理として運動の中で使っていくには限界があります。

人口学の見方からは何も間違ってはないでしょう。「日本人」じゃない人たち、「異性愛者」じゃない人たち、「健常者」じゃない人たちなどは明らかに少ないです。多数決の民主主義で少数者の声が掻き消されるのは、社会の仕組み上で当然のことであり、だからこそ多数者は積極的にそういった声に耳を傾ける姿勢を取ることが求められます。実際に今までもそうしてごく稀であれマイノリティを守る法律が作られてきました。それは重要な進歩です。

でも「多数派 vs. 少数派」の論理だけでは、女性差別や経済的格差についての問題を同時に考えていくことが難しくなります。さらにこの構図を突き詰めていくと、結局物事の決定権は多数派にあって、少数者は「保護するべき稀な存在」であるという関係性が見えてきます。「声を聞く」という動作や、「存在を認める」という動作、肝心の主語は多数者のままなんです。抑圧を受けている側も、「私たちの権利を認めてください」「差別をなくしましょう」なんて言い方を未だによくします。これでは権力関係はぶち壊せません。権力の居場所を突き止めて、その加害者性を思い知らせるレベルにまで進めへんからです。辛淑玉さんの言う通り、「お前が悪いんだよ、そんなことも知らないのか」と言っていく必要があるのです。

「権力の居場所」は、「誰が敵で誰が味方か」という問題ではありません。モザイク画を想像してください。遠くからならはっきり図柄が見える絵でも、それが一体どんな素材のどういう配置で成り立っているのかは分かりません。反対に近付いて見ると、個々の部分はよく見えてくる代わりに全体が見えにくくなります。大事なのはそのバランスであり、そして「誰がなぜそういう配置にしたのか」と疑問を持つことなのです。「どのピースが何色か」という基準で見ていたらキリがありません。つまり、数の理論だけに集約できるほど抑圧の構造は単純ではないのです。

例えば、「セクシュアルマイノリティ」が抑圧を受けるのは「異性愛者」に偏見があるからだけではありません。個人対個人のレベルで「存在を認めてもら」っても、社会の構造は変えられません。「人間は子孫を残すために存在する」という幻想、それに基づいた「男・女はこういうもの」という固執、それが支える「家族とはこうあるべき」という勘違い、さらにそれが支える「国家とは絶対で明確で秩序的で不可侵のもの」という思い込みがあるからこそ、結婚するのしないのというレベルの議論しかできなくなる訳です。こういう幻想、固執、勘違いや思い込みが苦しめるのは当然「セクシュアルマイノリティ」だけではありません。そもそもなんで「異性愛者」「セクシュアルマイノリティ」というカテゴリー自体が生み出されたのかを分析していく必要があるのです。

もちろん現実的・物質的にそういう単純なカテゴリーによって誰が得して誰が苦しんでるのかをごちゃ混ぜにはできません。異性愛者は「彼女いるん?」って聞かれる度に葛藤を覚えることはないのです。一方で、得してるグループ・苦しんでるグループの境界線はそんなに明確に引かれてはないことも事実です。在日コリアンの中にも女性差別はあるし、ゲイコミュニティ内にも朝鮮人差別は蔓延してます。今日の被害者だって明日の加害者に簡単になれます。「権力の居場所」は個人の中にある訳ではない、とはこういうことなんです。誰かを被害者にし、誰かを加害者にして、それを「当然や」と思わせる仕組みが成り立っているからこそ構造的抑圧は自由自在に見た目や形を変えてのさばり続けるのです。

つまり何が言いたかったのか。「マイノリティ」という位置づけに落ち着いて「私たちにも権力を分けてください」と言う、特に「私たちもこんなに生産的で従順で、経済発展にも貢献してるし国家も尊重してて、黙ってさえいればほとんどあなたと同じでしょ」と主張する方法では、根本的に差別・抑圧を社会構造レベルで撲滅することはできないのです。本当はごく一部の人間が大多数の人間を支配している(かも知れない)という側面は、「マイノリティ」という表現ではなかなか見えてこないということでした。