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 2012-05- 

「見えない存在」性 

実際に在日コリアンでゲイ・ビアン・トランス・バイの人ってどれくらいいるんでしょう?僕は日本のゲイ社会で日常生活を送ったことがないのでほとんど出会ったことがありません。「たぶんコリアンの血が混ざってる」と言う友達はいるし、アメリカにも韓国人と在日の両親を持つクィアの友達がいます。でも在日コリアンとしての自認が強いLGBTの同胞は全くと言っていい程知らないのです。強いて言えば自分の親戚に一人いるのを知ってるぐらいかな。

mixiの「在日でゲイ」コミュニティには僕を含め4人だけメンバーがいます。たった4人!僕が以前にちょっとだけ働かせてもらってた堂山のバーにいる韓国出身の従業員さんの証言では、たまにこっそり「私在日なんです」って彼にだけ打ち明ける人がいたりするらしい。ゲイ社会でのコリアン男子のモテっぷりを考慮すれば、もっとあっちこっちで(特に大阪とか)出会っててもおかしくないはずやのに、なんでなんでしょう。ちょっと考えてみましょうか。ゲイだけに特定するつもりは無いんですが、なんせゲイ・ビアン・トランスの各コミュニティは元々繋がりが稀薄な上に、高校以後は日本での生活経験に乏しいので、視野が限られてることがちょっと悔しいです。

1)そもそも在日コリアンとしての自認が強くない。
日本を出るまでの僕はこの状態だったので、個人的に一番あり得るかと思うんですけど、どうでしょう?3世以降やったら特に在日の親は一人だけやったりして日本語・日本名・日本国籍で育って来た人も多いと思います(僕がまさにその一人です)。見た目の区別がほとんど付けられへん以上、ことさら在日としてのアイデンティティを保つ動機も環境も揃ってないのが現実なんかな、と。

2)日常生活でゲイ・ビアン・トランスとしての問題のほうが在日としての問題より大きい。
これはもちろん一つ上の理由とペアになってることもよくあると思います。人種的・民族的マイノリティやったら大抵は自分の家族とは「同類」やのに対して、いわゆる(あくまで鉤括弧付きで)「性的マイノリティ」やったらまず原点が一人なので単純に考えてその分葛藤も大きくなるでしょう。逆の場合もあるんかな?

3)普段日本社会で日本人として生活してるからあえてゲイ・ビアン・トランス社会で在日として生きる理由がない。
ここまで考えて、これらの理由はそれぞれ独立してるわけじゃなくて全部どっかで繋がってることに気付きました。日本社会の一部である以上、ゲイ社会の中でも似たような民族的・人種的な力関係が成立してても驚くことはないでしょう。すると、ノンケ社会⇄ゲイ社会の境界線が、日本人キャラ⇄在日キャラの境界線と必ずしも重なる必要はないということになります。ちなみにこのキャラを使い分けること、英語ではcode-switchingと言います。

4)ゲイ・ビアン・トランス社会で在日コリアン差別を避けるために意識的に隠している。
1〜3が消極的に「在日としてはカミングアウトしてないけど、言うまでのことじゃないし、でも聞かれたら隠さへん」って感じの態度なのに対して、これは積極的に「過去にゲイ社会内の対人関係で何らかの在日差別を受けたから言いたくない」って感じです。でも、在日差別って対人関係ではあんまり面と向かって経験することは少ないと思います。なぜなら、その経験をするには、見た目ではっきり在日コリアンやって判別できる状態にいたり(民族衣装や朝鮮学校の制服着てるとか朝鮮語喋ってるとか)、もしくは差別した人がされた人のことを在日やって認識してる状態にある必要があるからです。でも戦時中から続く差別と同化政策の下では、生き残りのために日本人の振りをすることが知恵として世代を超えて身に付いてると思うので、あえて普段から初対面の人に「初めまして在日です」なんて言ったりせんし、今時大人になってあからさまな差別を投げつける日本人って石原慎太郎とか在特会とか極右翼の人間ぐらいしかいないと思うので、絶対数としてはこのケースは少ないんじゃないでしょうか。ゲイ社会に入っていく以前に日本社会での生活で在日であることを隠すことを学んでることのほうが圧倒的に多いと思うのです。ゲイ社会内で在日差別を受け得る状態にまで達することがまずほとんど無いでしょう。オープンでしかも無傷の在日がいて、その人の初めて受ける差別がゲイ社会であると言う確率、ゼロに近いはずです。

これはそういう日本人が存在しないとか在日に対するいじめが無いとか言ってる訳じゃなくて、むしろ差別ってもっと巧妙に機能するもんやってことを強調しようとしてるのです。つまり、在日コリアンに在日であることを自ら隠させる社会を作ってそれを保っていくことで、日本人は敢えて何もせずとも在日差別を続けていくことができるのです。そのためには少ない人数に対してちょっと強めの差別を与えるだけで残りの多数に見せしめになるし、それ以外の人間は日本人であれ在日の当事者であれ知らん振りどころか何も知らないことそのものが差別の助長になる訳ですから簡単です。もちろんこれは「性的マイノリティ」に対する差別に関しても同じことが言えます。カムアウトしない以上面と向かって差別を受けることはほとんど無いけど、それはつまり差別が無いっていう話じゃなくて、自発的にカムアウトできひん状況そのものが差別を受けてるんやってことです。だから法務省とかの「差別を無くしましょう」とか「人権を守りましょう」とかいう標語は無意味なのです(そもそも日本には人権を守るシステム自体が存在しません)。

5)ゲイ社会は「夜社会」なので「昼社会」の顔は持ち込まない。
この風潮はちょっと古いかも知れませんが、あり得る理由だと思います。バーとかクラブとかサウナとか公園とかいう伝統的なゲイの交流拠点は空間的にだけじゃなくて時間的にも夜に限定されてて、昼間に一般社会で何の仕事してどんな家族がいてとかいう生活臭のある情報は持ち込まれないようになってたので、その流れで在日うんぬんとかいう話も上がって来ない可能性はあるでしょう。ゲイ社会でも便宜上本名を使ってない人はいっぱいいます。でも今の20〜30代とかやったらまた違うかもね。これはビアン・トランス社会では更に違ってくると思いますが、今の僕の知識と想像力では残念ながら何とも言えません。

この他にも色々と在日コリアンの存在がゲイ・ビアン・トランス社会で見えない理由はあると思います。

仮に3で前述のノンケ社会⇄ゲイ社会の境界線と日本人キャラ⇄在日キャラの境界線が明確で固定されたものやとすると(そんなことは決して無いと思いますが)、理論的には4つのパターンが考えられます。
1)ノンケ社会・ゲイ社会両方で日本人キャラを使っている。
2)ノンケ社会で日本人キャラ、ゲイ社会で在日キャラを使っている。
3)ノンケ社会で在日キャラ、ゲイ社会で日本人キャラを使っている。
4)ノンケ社会・ゲイ社会両方で在日キャラを使っている。

これをゲイキャラ⇄ノンケキャラの使い分けと日本人社会⇄在日社会の境界線に置き換えるとまた4パターン考えられます。
1)日本人社会・在日社会両方でノンケキャラを使っている。
2)日本人社会でノンケキャラ、在日社会でゲイキャラを使っている。
3)日本人社会でゲイキャラ、在日社会でノンケキャラを使っている。
4)日本人社会・在日社会両方でゲイキャラを使っている。

でも現実的に見てどっちも1が大多数なのは明らかです。差別の社会的な構造がそうさせるからです。ということはこの両方の1を4に持っていけたらいい…んでしょうか。「ノンケ社会・ゲイ社会両方で在日キャラを使って、日本人社会・在日社会両方でゲイキャラを使っている」。在日でゲイの僕としては、何か違うやろって感じです。やっぱり在日アイデンティティとゲイ(クィア)アイデンティティはもっと複雑に繋がってるし、それと同時にノンケ/ゲイ・日本人/在日コリアンの社会の境界線はもっと曖昧なものです。それを無理矢理単純に、明確にすることで差別構造が成り立ってる分、そこを突き詰めていくことは必要不可欠なんじゃないでしょうか。そもそも「在日社会」って何?

ここまで書いといて、毎回のことながらオチが思い付かへんねんけど(関西人としては受け入れ難い状況)、まぁ原稿料もらって書いてる訳じゃないしいいか。アイデンティティ(自認)、キャラクター(行動)、コミュニティ(人間環境)の関係性の複雑さと曖昧さ、というお話でした。