はじめに
いつか日本語で書かなあかんなーと思ってたことを、ようやく書ける気がして来たのでブログを作りました。別に自信があるわけじゃないけど、取り敢えず始めてみようと思います。実践を練習として、練習を実践として。
果たして誰に届くのかは分かりませんが、ちょっとずつ積み重ねていく中で何か見付かるかも知れません。一息に「人生語らな!」とか思うと気が重くなるので、自己紹介は今後の記事の中に混ぜ込んでいくということでご勘弁を。英語で良ければ、手っ取り早くこちらをご覧ください。
このブログに掛ける目標や託す望みなどは多々ありますが、一つ決めてるのは匿名にしないということです。在日やゲイにとって「匿名性」は牢屋であり、住居であり、防具であり、また武器でもあります。匿名での活動を批判する願望も資格も自分にはありません。ただ僕にとっては、自分が誰なのかを明確にした上でやっていくのが一番簡単かつ有意義やと思ってます。
どうぞよろしくお願いします。
2012年2月
- [2013/07/11 01:04]
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在日の未来と民族教育
最近朝鮮学校を支援する運動とかを遠巻きに見てて思うねんけど、このウリハッキョを中心としたコミュニティは将来どうなってくんかな?学校組織の運営の面から見ると、国全体の少子高齢化もあるからこの先入学者数が大幅に増えることはまず無いと思うし、民族教育そのものの意義についても世代が代わるにつれてもっと深く問われてくると思う。
朝鮮学校の民族教育だけを見れば、そりゃまぁ僕にとっては意義は今のところは明確やけど、日本学校と相対的に見た時に、個人的にどっちが良いかといわれるとどっちも嫌と答えてしまう気がする。僕は朝鮮学校に行ったことはないからあくまで印象でしか話せへんけど、日本学校で全然馴染めてなかった子どもの僕が朝鮮学校なら馴染めてたって言う自信も根拠も無い。ゲイやってことも合わせて考えると余計息苦しい想いをしたかも知れん可能性は拭いきれへんな。
先に結論を言っておくと、僕は朝鮮学校の民族教育の過去や現在の情況を否定はせぇへんけど、全面的に肯定する気持ちも無い。一世や二世がどんな想いで築き上げて守り抜いてきたかは知ってるつもりやけど、もちろん完璧なものなんか無いってのも知ってるけど、今の情況こそがあるべき姿やとは全く思わへん。でもやっぱり経験してない分だけ憧れはある。簡単に肯定も否定もできひんなぁ。
肯定しかねるのは、大雑把に言うと、ウリハッキョのコミュニティ(及び総聯、と民団もある程度)には「これが正しい朝鮮人の在り方である」というのが結構しっかり共有されてて、それはまぁ良い事やねんけど、良くない面もあるって考えはそんなに共有されてないと思う。例えば言語や歴史を知ってることは大事やってのはわかるけど、それが絶対に不可欠やとは僕は思わへんし、その教育が朝鮮学校でのみ行われんとあかん理由は何も無い。同胞に囲まれて育つことで「健全な」「朝鮮人としての」「アイデンティティ」を培うことができるっていう線の考え方は根拠に乏しいし大体は結果論でしかないと思う。むしろ元から「健全な(在日)朝鮮人とはこういうもんや」ってのがしっかり用意されてるねんから、それはもう「健全に」なるしかないんじゃないかな。
でもそれって、考えてみたら、半島本土の朝鮮人の思考とほとんど一緒で、「真正の朝鮮人とはこうである」っていう理想があって、一人ひとりがそれと照らし合わされて、そんなテストに合格するかどうか、みたいになってる部分はあると思う。帰化してなくて、民族名で生きてて、朝鮮語喋れて、文化も体得してて…ってどんどんリストをチェックしていったら、最終的には同胞の異性と結婚して朝鮮人の子ども作らなあかん、つまり「純粋な」「朝鮮」という民族・国家を再生産する作業に貢献せなあかん、ってなってくるんじゃないかと。僕はそんな「健全な」在り方はゴメンやわ。これはそういう理想の在り方を否定してるんじゃなくて、それ<だけ>が正しい在り方やって考えを否定してるんやけど。
そんな風に考えていくと、一体何を根拠に「私は朝鮮人です」ってキッパリ言えるのか怪しくなってくるみたいやけど、僕はそんなん結局は個人の勝手やと思う。朝鮮人としての民族的な自己認識を国籍とか名前とか言語とか血筋とかで代わりに測ろうとしてたら、将来的にはそんな「在日」は消滅するに決まってるやん。でも現実はそうじゃなくて、民族を量的な純粋さで測ってたらアイヌ民族なんかほとんど消えたことになってしまうけど、アイヌやって自己認識を持ってる人はいっぱいいるし、むしろこれから増えてくると思う。自分のアイデンティティについて自分以外の誰にも、家族にでさえ、どうこう言われる筋合いは無いねん。その代わり、自分がどういう生き方をしたらどういうアイデンティティに繋がっていくか、そんでどういうアイデンティティを持てばどういう生き方に還元されるのか、というプロセスを自分自身で探していくしか無いんじゃないんかな。
つまり、今までの主流な在日論では、「半島を棄てて日本への同化」か「半島を基軸にした民族分離主義」かのどっちかしか、日本人からも在日コリアンからも与えられてなかったと思うねん。日本人からは「平等に扱って欲しかったら帰化しろ」って言われるし、在日からは「帰化したら在日じゃない」って言われるし。そうじゃなくて、どんなに「朝鮮人らしく」なくても、自分の歴史を辿って自分で自分は朝鮮人やって自由に決められるように、そんでその決定を受け入れられるようにしていかなあかんのちゃうかな。日本人とのミックスでも、朝鮮語喋れへんかっても、民族名持ってなくても、日本国籍でも、自分は朝鮮人やって言えたらそれでいいんじゃないのかと。
だから、僕はウリハッキョを守るのも重要やけど、民族教育を、または民族問題に敏感な教育を、もっともっと日本学校にぶち込んでいかなあかんと思う。現に在日コリアンの多くはほとんど「同化」して日本人として暮らしてるんやから、そこでどうやってほとんど「同化」してる在日コリアンの若い世代に、それでも自分のルーツを誇ってもらえるように仕向けるか。どの民族が優れてるとかどっちの国家が正しいとかじゃなくて、どうやって歴史を教えていくのか。朝鮮人だけに朝鮮語を教える必然性は無いし、朝鮮人だけに朝鮮の歴史を教える必然性も無い。むしろみんながみんな、朝鮮の問題も沖縄の問題もアイヌの問題も部落の問題も、一般教養としてもっと深く教わらなあかんやろ。
そこで必要とされるのは、誰を前提として学校教育を組み立てるのかやと思う。クラスに二人は朝鮮人がいる前提でする授業は、クラス全員が日本人やと思い込んでする授業とは全然違うはずやし、クラスに二人は「セクシャルマイノリティ」の生徒がいる前提でする授業は、クラス全員の主体性がジェンダーやセクシュアリティの面で同質のもんやと思い込んでする授業とは全く違うはず。
「多様な在り方」を「認める」とか「受け入れる」とか「尊重する」とかよく言うけど、それにはまず「これこそが正しい在り方・やり方や」っていう考えは一つ残らず潰していかなあかんと思う。それこそが、弱者や少数派だけじゃなくて、強い側の人間も多数派の人間も含めて結局みんな苦しめてるってことに気付こうよ、と言いたいわけ。そんでさっきも書いた「同化」か「分離」かのどっちかしか選ばせへんような間違った仕組みはもう通用しぃひんねん、と言いたいわけ。「多文化共生」とか安易に使われてるけど、それが実際どういう環境なんかもっと具体的に考えようよ、と。「どっちか」じゃなくて「どっちも」の道もあるやん!
- [2013/07/11 01:04]
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