「マイノリティ」の限界 

「マイノリティ」という表現をよく耳にします。「セクシュアルマイノリティ」や「民族的マイノリティ」など、日本・日本語では特に「社会的少数者」の意味で使われてますね。でもこの多数派が少数派を抑圧するっていう考え方、論理として運動の中で使っていくには限界があります。

人口学の見方からは何も間違ってはないでしょう。「日本人」じゃない人たち、「異性愛者」じゃない人たち、「健常者」じゃない人たちなどは明らかに少ないです。多数決の民主主義で少数者の声が掻き消されるのは、社会の仕組み上で当然のことであり、だからこそ多数者は積極的にそういった声に耳を傾ける姿勢を取ることが求められます。実際に今までもそうしてごく稀であれマイノリティを守る法律が作られてきました。それは重要な進歩です。

でも「多数派 vs. 少数派」の論理だけでは、女性差別や経済的格差についての問題を同時に考えていくことが難しくなります。さらにこの構図を突き詰めていくと、結局物事の決定権は多数派にあって、少数者は「保護するべき稀な存在」であるという関係性が見えてきます。「声を聞く」という動作や、「存在を認める」という動作、肝心の主語は多数者のままなんです。抑圧を受けている側も、「私たちの権利を認めてください」「差別をなくしましょう」なんて言い方を未だによくします。これでは権力関係はぶち壊せません。権力の居場所を突き止めて、その加害者性を思い知らせるレベルにまで進めへんからです。辛淑玉さんの言う通り、「お前が悪いんだよ、そんなことも知らないのか」と言っていく必要があるのです。

「権力の居場所」は、「誰が敵で誰が味方か」という問題ではありません。モザイク画を想像してください。遠くからならはっきり図柄が見える絵でも、それが一体どんな素材のどういう配置で成り立っているのかは分かりません。反対に近付いて見ると、個々の部分はよく見えてくる代わりに全体が見えにくくなります。大事なのはそのバランスであり、そして「誰がなぜそういう配置にしたのか」と疑問を持つことなのです。「どのピースが何色か」という基準で見ていたらキリがありません。つまり、数の理論だけに集約できるほど抑圧の構造は単純ではないのです。

例えば、「セクシュアルマイノリティ」が抑圧を受けるのは「異性愛者」に偏見があるからだけではありません。個人対個人のレベルで「存在を認めてもら」っても、社会の構造は変えられません。「人間は子孫を残すために存在する」という幻想、それに基づいた「男・女はこういうもの」という固執、それが支える「家族とはこうあるべき」という勘違い、さらにそれが支える「国家とは絶対で明確で秩序的で不可侵のもの」という思い込みがあるからこそ、結婚するのしないのというレベルの議論しかできなくなる訳です。こういう幻想、固執、勘違いや思い込みが苦しめるのは当然「セクシュアルマイノリティ」だけではありません。そもそもなんで「異性愛者」「セクシュアルマイノリティ」というカテゴリー自体が生み出されたのかを分析していく必要があるのです。

もちろん現実的・物質的にそういう単純なカテゴリーによって誰が得して誰が苦しんでるのかをごちゃ混ぜにはできません。異性愛者は「彼女いるん?」って聞かれる度に葛藤を覚えることはないのです。一方で、得してるグループ・苦しんでるグループの境界線はそんなに明確に引かれてはないことも事実です。在日コリアンの中にも女性差別はあるし、ゲイコミュニティ内にも朝鮮人差別は蔓延してます。今日の被害者だって明日の加害者に簡単になれます。「権力の居場所」は個人の中にある訳ではない、とはこういうことなんです。誰かを被害者にし、誰かを加害者にして、それを「当然や」と思わせる仕組みが成り立っているからこそ構造的抑圧は自由自在に見た目や形を変えてのさばり続けるのです。

つまり何が言いたかったのか。「マイノリティ」という位置づけに落ち着いて「私たちにも権力を分けてください」と言う、特に「私たちもこんなに生産的で従順で、経済発展にも貢献してるし国家も尊重してて、黙ってさえいればほとんどあなたと同じでしょ」と主張する方法では、根本的に差別・抑圧を社会構造レベルで撲滅することはできないのです。本当はごく一部の人間が大多数の人間を支配している(かも知れない)という側面は、「マイノリティ」という表現ではなかなか見えてこないということでした。




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